19世紀後半からの日本建築の近代化の過程は、西欧化のプロセスであると考えられがちであったが、近年になり、近代化にともなう伝統の再認識という側面についての研究が盛んになってきた。その時には、建築のみならず、広く近代和風文化の再興の流れが考察の対象になる。それは茶道、生け花、芸能、庭園、美術、工芸などに及ぶ。ここでは建築にもっとも近いと考えられる庭園を視野に入れた近代化と伝統の関係を探ることを主たる目標とした。そして、庭園における関東と関西の違いを調べることをその作業内容とした。なぜなら、庭園には土地の性格が強く反映するからであり、地域文化の特質が明瞭に現れるからである。しかし、一方で、近代化の特質のひとつに、均質化という側面がある。日本全体が均質な情報によって覆われ、技術においても地域差が消滅してゆくのが近代である。この、相反する側面を庭園に見いだすことができる。明治中期から昭和初期にかけて活躍した庭師、小川治兵衛は、京都で活躍しながらも、後半生においては関東あるいは中国地方においても作庭の場をもった。こうした幅広い活動のなかで、伝統はどのように拡大し、拡散したのかを調査した。具体的には、小川治兵衛最晩年のパトロンである長尾欽哉の庭園を調査した資料のまとめと分析を行ったのである。ここから日本の近代化の本質のひとつが浮かび上がる。
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