〔I干田家文書について〕 千田家文書は、(1)家譜・家政史料、(2)職人支配史料、(3)作事関連史料の3つに大きく分けられ、更に(3)については、A建築技術史料とB作事仕様・入料史料とC作事絵図の3つに分類できる。B資料の内33点について、(1)九代目の文書が殆どであること、(2)定御修覆所に関するものが半数を占めること、(3)大身家臣屋敷に関する文書がいずれも、十代目、十一代目が家督相続以前に関わっていること、以上を明らかにした。C資料の内44点については、その書式や時期の検討と作成経緯を中心に、(1)千田家九代の絵図が7点、十一代の絵図が15点あること、(2)絵図の種類については、指図が少なく、殆どが建地割図であること、(3)定御修覆所に関わる絵図12点、在々御修覆所に関わる絵図1点あること、(4)18点が稽古図としての作成経緯と考えられることなどを明らかにした。 〔II御大工の組織形態について〕 1.作事方の職制について:寛永期には、作事方が成立していること、畿内建築工匠が仙台を離れた後、寛永期以降には、東北出身の建築工匠が建築生産活動の担い手になっていること、など前期までの概略を示した。2.御大工の組織形態について:藩政前期から末期まで、お抱え建築工匠の員数のスケールがほぼ一定であること。このうち、お抱え大工すなわち御大工は250人程であったことを明らかにし、江戸時代末期における御大工の職能や格式、御大工大工組の人員構成、などを示した。3.藩営作事における工匠動員形態について:藩営の「御修覆」について、その対象が「定御修覆所」、「別牒付御修覆所」、「在々御修覆所」の3つに大別されていたこと。担当部局は、「定御修覆所」が御作事方でお抱え建築工匠を動員し、「別牒付御修覆所」、「在々御修覆所」が御郡方で、在方の建築工匠を動員したこと。以上を明らかにした。
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