近世京都において内裏周辺に存在した「公家町」について、「築地之内」と呼ばれる地域の成立過程、および地域内での禁忌や天皇・公家の使い方を中心に検討した。判明した諸点は次の通りである。 (1)築地之内は、公家町のうち内裏外郭門で区切られた内側の地域を指した。 (2)築地之内を区画する外郭門は、慶長末年頃には2箇所だったが、江戸中期にかけて増設されて最終的に9箇所となり、門で囲まれる範囲は次第に南に拡張した。門によって閉鎖された構成になって初めて築地之内は成立したと判断され、その時期は二条城行幸に中立売御門が用いられた寛永3年(1626)以降、6箇所の門が確認できる寛永20年以前の間となる。 (3)築地之内は、一般の町人の日常の通行は自由だったが、天皇や公家・武家の公式行事では通り抜けが許されず、葬送など不浄なものを近づけぬよう配慮されており、平安宮における大内裏と同様、内裏に準じる空間として扱われていた。 (4)築地之内では、内裏近辺の主要な通りや、外郭門周辺の目立つ部分では家の格に関わらず築地が用いられ、その費用は幕府が負担した。築地之内は、内裏に準じる空間として景観が整えられた。 (5)築地之内成立の契機として、寛永7年の後水尾院・東福門院御所造営があげられ、2代将軍秀忠の娘である東福門院の御所を内裏に準じる聖なる空間として扱うためと考えられる。 (6)慶長末期から存在した2つの外郭門の位置は、天正度・永禄度内裏を中心とする方三町の区域の境界に当たり、築地之内成立以前の内裏周辺では中世以来の「陣中」の概念が踏襲されていた。
|