日本の冷温帯渓畔林の主要な構成樹種であるトチノキは、花粉がマルハナバチなどにより運ばれること、大型の種子は地上に落下したのち、ネズミなどの貯食行動によって散布されることが知られている。トチノキは渓流に沿った段丘部分や斜面の下部を好んで生育するため、特に谷の細くなった上流部分では、個体群の空間分布の形状は細長いものとなる。このようなトチノキ個体群において、マイクロサテライトマーカーを用いたDNA解析により個体間における花粉の交換と、繁殖投資量などの要因の花粉交換量への影響をしらべた。また、マーキング法により種子の二次散布の距離を測定し、花粉交換と種子散布の過程を反映した遺伝的な空間構造が渓流に沿って存在するかを検討した。渓流に沿って約1000mにわたって生育する繁殖個体間において、種子の花粉親は、広く分布していた。個体間の距離が離れるにつれて送粉数は有意に減少したが、花粉親のサイズ、雄花数、開花時期の同調度の送粉数におよぼす影響は明瞭ではなかった。種子の自殖率は、樹冠につけた雄花数に対して飽和型の関係を示し、雄花を大量につけることは、送粉者の滞在を長くすることにより自殖率を高め、個体間の送粉数を必ずしも多くしないことが示唆された。林床に落下した種子は動物によって二次散布され、斜面上方や小さな谷を超えた場所での発芽が確認されたが、その距離は花粉の交換距離にくらべるとはるかに短かった。最上流部における繁殖個体間の遺伝的類似度は、個体間の距離が大きくなるとともに有意に減少し、距離が近い個体間ほど遺伝的な類似度が高いことが示された。このことは、個体間の距離が大きくなることによる送粉量の減少と、種子親個体から周辺への動物による種子散布を反映したものと考えられた。
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