江戸時代に発達した日本の数学を"和算"と呼ぶ。和算の数学起源は中国の古代数学にある。 18世紀に至ると、西洋科学と数学知識は中国清を通じて徳川時代の日本に伝播するようになった。1720年、徳川幕府は、改暦の必要性から開府以来の禁書令を緩和して、イエズス会宣教師が漢語訳した西洋学術書の輸入を認めた。これ以後わが国に伝わった漢訳西洋暦算書の中で、和算家は、特に梅文鼎遺著『暦算全書』(1723年刊)、梅穀成編『暦象考成』(1723年刊)および戴進賢編『暦象考成後編』(1742年刊)などを研究し、これらから平面・球面三角法を学ぶことになった。三角関数表は『西洋新法暦書』や『暦象考成』に掲載された表を写し取った。また、対数は『数理精蘊』(1723年刊)から学ぶことになった。そして、和算家は三角法や対数を天文学のみならず、測量術や航海術に応用したのである。 また、漢訳西洋暦算書は18世紀後半から19世紀の蘭学者にも影響を与えていた。長崎オランダ通詞であった志筑忠雄は、ヨハン・ルロフスの『真の自然学と天文学講義入門』(1741年刊)の訳出に、漢訳西洋暦算書を参照していた。志筑は専門用語の適正訳語を漢訳西洋暦算書から引用していたのである。経世家・蘭学者・和算家として著名な本多利明も同様の手法を採っていたのである。 今回の研究は、18以降の漢訳西洋暦算書の伝播と受容に視点を置いた。今後の研究課題としては志筑忠雄の事例に見られるような、蘭学者と漢訳西洋暦算書、および19世紀後半に中国語訳された西洋高等数学書の伝来に関する研究が必要である。
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