本研究の目的は、1945年にフランス原子力庁CEAが設立されて以来、現代に至るまでのフランスに於ける原子力民事利用開発の歴史を追究することである。それに関して、本年度は初期フランス原子力開発に於けるウラン採鉱の重要性を明らかにした。なおこれまでのフランス原子力開発研究の中では、この観点にたった分析はほとんどなされていない。 (1)ウラン採鉱の歴史的背景 フランスでは、国内にウラン資源が存在することが19世紀から知られており、1898年にCurie夫妻によって新放射性元素ラジウムが発見されると、ラジウムを含む鉱物としてのウラン採鉱が一定期間非常に盛んになる。しかしこの時点では、フランスで大量のウラン鉱床が発見されたわけではなく、第二次世界大戦前には、Madagascar以外の地域でのウラン採鉱は中止となった。それがCEA設立と同時に再開されることになる。1945年10月8日に設立されたCEAの最初の条例でも、ウランの探鉱がCEAの任務であることが明記されている。当時CEAが所有した(あるいは隠しもった)ウランは10トン程度であり、最初の重水炉にはそれで十分であるとしても、以後の黒鉛減速ガス冷却炉を稼働していくには十分ではないと判断された。そこで、CEA内に鉱物探鉱部局D.R.E.Mを編成し、フランス国内と海外領土に於いてウラン採鉱が行われることになる。 (2)D.R.E.Mの活動と成果 1950年の予算資料に基づくと、予算全体の44%をD.R.E.Mが占めている。また1946-50年のCEA報告書では、1950年春からCEA長官となったF.PerrinがD.R.E.Mについて20ページをさいて述べるなど、初期のCEAではD.R.E.Mが重要な役割を果たしていたことがわかる。D.R.E.Mはガイガー計測器を用い、フランス国内とMadagascar、アフリカ西部・中部で積極的にウラン採鉱を行った結果、1948年10〜11月にかけてCrouzilleでフランス初のウラン鉱ピッチブレンドを発見する。当時のCEAの報告書には、「この発見によってフランスのウラン資源は保証されるが、将来のフランスでの原子力発電開発のためには、さらにウラン採鉱を続けるべきだ」と書かれている。Crouzilleでの発見から約一ヶ月半後、フランスは初の重水炉Zoeに成功する。Crouzilleでの発見は、D.R.E.Mの活動を促進するだけでなく、以後の原子力発電開発を加速する大きな要因であったといえる。
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