青森県の下北半島に位置する脇野沢村は、江戸時代に能登半島を中心とする北陸の漁民や商人が、ヒバやタラを求めてやってきて定住した村である。そのため、住民達は当初から、いとも軽々と周辺地域での他所稼ぎに従事してきた。この頃の村の景観と住民の生活の様子については、明治5年の壬申戸籍図で復原した。その後、明治維新による山林の国有地化に伴って、脇野沢村ではタラ漁への傾斜が進み、、タラ漁の季節性を埋めるように、幕末以降発達しつつあった北海道へのニシン漁への出稼ぎが多くなる。このニシン場出稼ぎも、明治期には旧来の他所稼ぎの伝統に乗ったものであった。しかし、その後の経済変動の大きさや不況などによって、大正期から昭和前期にかけて次第に「せざるを得ない」他所稼ぎが多くなり、出稼ぎ問題が発生するようになる。タラ漁業への専門化を示す住民の生業形態に関しては聞き取りで復原し、当時の出稼ぎの特徴に関しては、新聞記事などから考察した。第二次世界大戦後、脇野沢村自体におけるタラ資源の枯渇や、北海道におけるニシン漁業の衰退があったが、それを埋めるように、北海道の開発が格好の出稼ぎ機会を提供し、北海道での「土木や建設出稼ぎ」が多くなる。その出稼ぎは、高度経済成長期になると、北陸や関西、とくに関東に向けられるようになる。この頃になると出稼ぎの量も質も変質し、さまざまな社会問題が注目されるようになった。その重要な一つが、出稼ぎや年金生活者の増大に伴う地域そのものの空洞化であった。これら他地域間との交流については転出戸籍簿から、現在の生業形態については聞き取りによって復原した。
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