昨年度の成果を踏まえて、本研究は今年度、主に二つの方向へと展開された。 まず、病理的状態までをも含むいわゆる「倒錯」の核心を構成する要素はなにか、という問題設定に導かれて、報告者は「欲望の対象」と「欲望の原因」とを区別するJ.ラカンのテクストに依拠しつつ、フェティシズム(より正確には、フェティシズムにおける対象のあり方)をすべての倒錯のいわばプロトタイプとして位置づけることを試みた(フェティシズムをこのように倒錯のプロトタイプとして捉える考え方は、驚くべきことに、心理学の領域にはじめてこの概念を持ち込んだA.ビネーによりすでに19世紀末に示唆されていた)。ラカンが「欲望の原因」と呼ぶのは、それ自体が欲望されているわけではないが、欲望が維持されるために現前していなければならないような対象、のことであり、これはフェティシズムにもっとも特徴的であるばかりか、サド・マゾヒズムや露出症などにも顕著に見出される。報告者の見るところ、現代社会には、科学テクノロジーと産業資本主義との共謀によって、このような性格(それ自体が欲望されているのではないが、欲望の支えとなっている)の対象が夥しく氾濫し、しかもそれが「欲望の対象」(欲望されている対象)と混同されるという錯覚が蔓延している。報告者は目下のところ、この錯覚をもたらすメカニズムの解明を急いでいる。 他方、報告者は、「倒錯」という欲望のあり方が孕んでいる「倫理性」の問題を洗い出す必要をしだいに強く感じるようになった。倒錯者とは法から逸脱する者ではなく、自らがそこへと同一化しさえするような完結した法の作成者=体現者にほかならない。倒錯者はつまり、独自の倫理を誰よりも完璧に生き抜いているのである。こうした観点は、これまでの本研究の成果を補強すると同時に、その枠組みを越えて取り組まれるべき重要な課題として、報告者を捉えている。
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