政治的文脈において自由の保証や権利性が主張される場合、自由である状態とはどの様な状態であるのかについてのイメージは人々に共有されているかに見える。しかし論争の中では、一見自明であると思われていた「自由な状態」の想定や解釈に関しての齟齬が生じてくる。或行為者が置かれている状態は、自由なのか・自由で無いのか、それは本当の自由なのか・それとも見せかけの自由なのか、と云った点に関する観察の相違である。理論的・分析的な権力論や自由論はこうした論点に関らざるを得ない。法学の分野で議論されるパターナリズムは、こうした実際的な対立と理論的な探求が正に交叉している様な事例を提供する。そこで法学・法律実践の領域におけるパターナリズムの事例に即しつつ、そうした自由概念の分析的意味について明らかにした。その要点は以下の様に纏められる。-(1)法学的議論は現象の説明ではなく、パターナリズムをリベラリズムと整合的に正当化しようとする試みである、(2)その正当化は実際には殆ど「拡張的侵害」を主張してリベラリズムとの無矛盾化を計っており、事実上、現象の「非パターナリズム化」を行っている、(3)パタナリズム的介入は消費者保護立法等と同様に、基本的には行為者の「無能力視」の流れの中に位置付けられ、この人間観は社会心理学や遺伝子科学等によっても広められつつあるものである、(4)理論的には、「自由」は選択性の帰責のなされ方によって初めて定義される非実体的概念である、(5)実際にも、帰責様式は社会によって異なっている。(6)精神分析と同様、社会学的な「説明」の営みは行為者への内部帰責を解消する方向にあり、素朴に「自己決定権の擁護」を述べる事は困難であり、基礎理論的検討が必要である。 研究成果の一部は2000年11月の日本社会学会大会にて報告した。今後論文として公表して行く予定である。
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