1980年代頃、アルゼンチンの日本人移民の子孫のアイデンティティ志向はそれまで支配的であった様相から変化を示すようになった。アルゼンチンへの日本人の移住は比較的に遅く(隣国からの転住を含めて70年代)まで続いたため、移民の第一世代は最近までコミュニティの指導的な役割を果たしていた。80年代にいわゆる「二世」達はもはや中核をなしていたが、世代交代の過程で様々な摩擦が起こり、結果的に主な伝統的な組織は停滞に向かった。この頃まで、第二世代のアイデンティティは専らアルゼンチンの方へ傾き、日本に対して少なくとも言説上一定の距離が置かれていた。「二世」とは一時的で部分的なものとして受け止められ、彼らのほとんどはアルゼンチン人という名乗り方に疑問をもたなかった。ところが、この時期から、内外の事情によって、固定化していたかのように見えた「二世」そして「アルゼンチン」をめぐるアイデンティティの諸言説は著しく変遷するようになった。結論から言うと、1)アルゼンチンのナショナルなアイデンティティの相対化、2)アジアからの新移民との差別化、3)日本への「出稼ぎ」体験、という条件のもと、移民の子孫たちは先祖の出身地と新たな関係を構築するようになった。その際、自らの「日本性」を再獲得し、そしてこれをアイデンティティ志向の重要な部分として認識されるようになった。この志向を言語化することに当たっては、しばしば「ニッケイ」という表現が用いられるが、これは必ずしも政治・法律的な概念の日本国と直結につながるものではないことを指摘できる。すなわち、「ニッケイ」に内在する日本たるものの意味は移民の独特な経路と体験に特徴づけられ、厳密で本質的なものであるというより、基本的にアルゼンチン社会に照らし合わせて作られたものである。 一方、国家と別の基準で起動される可能性も備えているため、「ニッケイ性」は他の国での移住体験者との連帯を引き起こす潜在的な力をもっている。これは、二年目の研究テーマである。
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