東京大学法学部明治新聞雑誌文庫、同社会情報研究所、同史料編纂所所蔵資史料、また主に消耗品として購入した各地の消防関係図書類の検討および、大阪、宮崎での史料調査を実施して以下の点が明らかとなった。 1.明治27年の勅令消防組規則の制定にもかかわらず、各地で消防組の編成変えが大きな問題になるのは明治末年以降であり、大火とガソリンポンプ、消防自動車など高価な装備の購入が契機となった。2.大阪での編成変えにあたっては軍隊をモデルとする、在来の伝統、先行する東京の消防組織、管理者である警察の組織の何れとも異なった組織原理が採用され、それに見合った採用人事が行われた。この方式は大阪から他の地域に普及した可能性が高い。また、大正期の消防手の官吏化についても大阪は東京と異なる発想、対応をとっており、東京消防が全国の消防近代化をリードしたと考えることは難しい。3.宮崎においては、大正期から消防組織の活動が本格化したと考えられる。特に消防自動車の購入後、市民ないし市会の意志を貫徹させる実力部隊的な役割を果たすようになる。昭和3年の県会議事堂放水事件は突発的なものではなくこのような事態の当然の結末である。騒擾事件自体は弾圧されたものの、消防組がその後も地元で支持を受け続け、放水事件の主犯は消防組頭、さらには警防団長として戦時期の宮崎の防衛を指導した。このことは地方史誌類で言及されていないが、消防組織の特性、国家権力との関係、さらに戦時体制自体を考える上で重要な発見である。また、放水事件の裁判傍聴記は当時の消防組の自己規定を伝える貴重な史料である。 このほか、明治10年代に警視庁の消防担当者であり、内務省警保局長として勅令消防組規則の制定にあたり、さらに静岡、山梨、香川等の県知事を歴任して地方消防の近代化にあたった小野田元煕の遺族を発見し、百余点の書簡・文書を拝借して整理およびマイクロ撮影を行った。
|