私は、論文「『宮中グループ」の変容と皇族集団」(『歴史学研究」第739号)において、「宮中新体制」という概念を提唱した。ここでは、1940年近衛新体制と連動する形で宮中においても新体制が成立しており、その中心は内大臣木戸幸一・昭和天皇であったこと、宮中の論理も、西園寺公望流立憲主義から天皇権威による国家機構の再統合の推進に大きく変わっていったことを指摘した。本研究では、「宮中新体制」の分析のために、特に内大臣木戸幸一の宮中における位置づけの見直しに力点を置いた。 その結果、従来言われていたように太平洋戦争期において内大臣木戸幸一は、元老山県有朋や西園寺公望に代わるような絶対的な存在ではなく、当該期の「宮中グループ」の中心は昭和天皇であることが理解できた。つまり、太平洋戦争のころ内大臣木戸幸一には天皇側近としての限界があり、それを見極めた上で、木戸の役割と責任を考察する必要がある。東條内閣の成立をめぐり、木戸幸一は近衛文麿と対立、この結果近衛グループの木戸から天皇側近の木戸へとその性格を変えていく。一方、太平洋戦争中政治の閉塞感のなかで各層より「天皇親政」を求める動きが加速し、「宮中グループ」の求心力が元老・内大臣から昭和天皇へと移っていった。近衛グループから離れた木戸個人の情報網は乏しく、内閣・統帥の情報は天皇に集まっている。ただ、木戸は後継内閣首班選定では太平洋戦争中最後まで実権を握っていた。終戦工作運動とならんで木戸の太平洋戦争における役割と責任はここにあり、戦争中という非常時にもかかわらず改革にふさわしい人材を選出できなかった責任は大きい。
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