1、弥生時代日本列島における副葬玉類の器種(管玉・勾玉・小玉。切子玉ほか)・素材(碧玉・緑色凝灰岩・翡翠・ガラスほか)を埋葬墓単位で網羅的にデータベース化した。そのうえで、これまでの研究も加味して、弥生時代を1期(前期〜中期前葉)、2期(中期中〜後葉)、3期(後期前〜後葉)、4期(後期末葉)に区分し、副葬玉類の器種・素材組成の変遷と地域性を明らかにした。その結果を要約すると、以下の通りである。 1〜3期における各地の過程は、多種多量化指向であり、3期ではさらに他地域との差別化指向も看取される。4期は、副葬品目全体の選択として玉類より道具類(鉄器など)に比重をおく傾向があるが、玉類をもつものの副葬ベクトルは、より多種多量を指向する場合とそうでない場合がある。 また、新来要素を受容するにあたっては、集団によって2つの対応がみられる。(2期の九州北部)、3期の対馬・山陰・近畿北部のように朝鮮半島とのアクセスが比較的容易な地域では3bを指向しており、製品・イデオロギー伝播の影響力が伺える。一方、その他の地域(九州北部含む)では3aを指向し、新来要素が付加されながらも、玉類組成の独自性・主体性を指向するようだ。ただし、翡翠製勾玉を嗜好する1〜4期の九州北部や3〜4期の吉備、ガラス製小玉を嗜好する3〜4期の東京湾沿岸部のような現象をみると、副葬玉類の選択は、素材ないし製品供給地とのアクセス利便性といった外的要因だけでなく、個別葬送集団の主体的な副葬・装身体系の表出といった内的要因が主導的位置を占めていたといえる。これには、逆に素材希少性の作用も考慮すべきであろう。 2、玉類の副葬形態を分析した結果、被葬者装身具として以外にも、埋葬儀礼執行過程の儀具として使用された形跡があり、被葬者上半身における施朱との親縁性も看取した。
|