北村透谷と深いかかわりのあった福井松湖。日本教督教会の初期から伝道活動にたずさわり、若い頃には北海道へ渡って、健康を害するまで開拓伝道をおこなった。新潟・木更津・宇治山田・神戸と各地をまわりつつ、いつも健康の不安と背中合わせに暮らしていた。彼はまさに命を賭してキリスト教に向い合い続けた人間であるにもかかわらず、<異端>ともいえる彼独特のく信仰のため、正式の牧師になれなかっただけではなく、ついに教会の籍そのものも除がれてしまう。それゆえいかに彼がみずからの信仰のために働いたかもはやそれを語るものよえいく、奇矯な振る舞いと感じられるエピソードしか遺されていない。 1993(明治26)年8月下旬、透谷の花巻に滞在した頃、福井はまだ牧師でも伝道師でもなく、喜城中会内で一信徒の立場でしかなかった。盛岡講義所につながりのある花巻講義所にいたのだが、そこで何かの教職に就いていたのではなく、新潟から北海道へ移動する途次のことであった。ちょうどだれと時を合わせるように、横浜共立女学校の創設者であるL・H・ピアソン女史(Louis H Pierson)が婦人伝道の目的で、花巻に来援したという記録があり、彼女の教えるであった妻の琴が彼女を救けるために、一時滞在していたとも考えられる。 「花巻在住の牧師」宅において透谷夫婦が交わした書簡の背景には、このような近代日本キリスト教史の主脈から外れた、ひとりの人間がいたことを銘記しておきたい。
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