明治30年代には多くの表現者たちが「話すように書く」というスローガンを掲げて言文一致に取り組み、新しい文体を模索した。だが、実際に教育現場で行われていたのは、むしろ「書くように話す」ための技術的訓練であり、自分たちの思考をあたりまえのように「標準語」に翻訳していけるような人間を育てていこうとする試みだった。つまり、そこでは相反する考え方が衝突しているにもかかわらず、結果として、それらがひとつにまとまって「正しい日本語」を推進していくようなシステムができあがっているのである。 その結果、世の中には様々な文脈での言語コンプレックスが蔓延し、文学もまた、一部の言語的エリートの存在を際立たせるようになる。「標準語」的な文化圏での認識が文学の内的世界を支配し、読者もまたそれに引きずられることを余儀なくされるようになるのである。そう考えていくと、いまでは、なかば定説のようになっている「音読から黙読へ」(前田愛)という読書行為の移行にしても、その範疇にあてはまるのは、「標準語」という新しい制度が全国に行き渡る以前の時代に基礎的な教養を身につけていた人々や、「標準語」と方言という落差を意識しなくて済んだ人々だけである。そこからこぼれ落ちている地方在住の民衆にとって、学校からの視線を介さない私的な<場>で書物を音読するという行為は、きわめて不自然だからである。 こうした視座に立って、この研究では、伊澤修二の言語観とその実践の全体像を正確に把握したうえで、明治30年代における国語・国字問題などを再検討し、従来いわれているような言文一意の成立史、読書行為のありようを再検証した。また、そうした実践が、しはしば言葉を生命体としてとらえようとする「科学」主義によって補強されていた事実を重視し、音声教育の思想と展開における進化論的言説の特徴などに迫った。
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