室生寺灌頂堂の建築史的評価 昨年の検討から、室生寺灌頂堂(現本堂)は、後宇多法皇の帰依により、北京律僧である空智房忍空の建立となることが判明した。これにより、灌頂堂は鎌倉後期における天皇家の第1級の建築に近い形態とみられ、遺構が残らない当時の天皇家・公家の建築を具体的に知ることのできる資料になると考えられる。一方で造営主体が北京律僧であることは、これも具体的な建築遺構が明確でない北京律僧による建築を知る好資料となるであろう、灌頂堂の建築意匠・技術は、このような背景を反映したとみれば理解しやすい。灌頂堂には、奈良地方に希薄な禅宗様建築の細部様式が認められ、泉涌寺に禅宗様が採用されていた可能性が大きいことを勘案すれば、北京律僧が禅宗様を導入したと考えられる。また、内部の住宅的要素については、京都風の意匠というより、むしろ天皇家・公家の影響と理解できるだろう。 派生する問題 室生寺御影堂に用いられた木製礎盤は禅宗様の影響が及んだものであり、これも北京律僧が関与したためと推定される。このように、少なくとも南都における禅宗様系の細部形式の伝播には、北京律僧の影響を考慮しなければならなくなった。当時、北京律僧は東寺・東大寺の大勧進をつとめたほか、高野山・四天王寺・鎌倉などでも活躍しており、これらの寺院や地域における建築の様相を、禅宗様の伝播という観点も含めて、北京律僧の活動からとらえ直してみる必要がある。また、本例は遺構として残る建築の帰依者を特定できる好例であり、建築意匠・空間を考えるうえで、工匠や本寺-末寺の関係のほかに、帰依者について再考する必要性を再認識させた。北京律僧の特質をとらえるには、西大寺系律宗には明確でない、有力帰依者との関係をとらえることが重要である。
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