(1)上野国内東部地域の門人:(1)馬庭念流免許者として上野国佐井郡赤堀市場村在の本間仙五郎家(應郷、應吉、應次、永八郎)が存在し、上野国内東部地域(山田郡、新田郡、勢多郡、佐井郡)での文化6年間頃(1809)より67年間の門人合計は382名であった。(2)山田郡大間々町富沢家、石原家など大間々「草分け六人衆」の旧家、佐井郡上植木村矢島屯次郎家、勢多郡津久田村狩野半兵衛、東田面村笠原家、三夜沢赤城神社宮司などが有力門人で、門人家に遺された文書、道場、武具、武器類を調査し撮影した。 (2)群馬県立歴史博物館本間家文書の撮影:群馬県立歴史博物館作成の『赤堀本間家文書目録』(313点)に従い本間家念流「門弟帳」「奉納額寄付台帳」(道了宮、湯ノ沢、滝沢、榛名山、雷電宮)、「書簡」等を撮影した。 (3)上野国吾妻郡の門人:(1)吾妻郡門人は宝暦6年(1756)〜元治元年(1864)まで390名の入門が確認された。有力門人として上野国の分限者「吾妻郡大戸村加部安左衛門」(「目代」)がおり、道場を持ち門人指導した。(2)「目録」格は大戸、横壁、草津、赤岩、四万、大柏木の各村に存在し、馬庭村〜榛名山南側〜萩生〜大戸〜須賀尾〜横壁〜長野原〜赤岩〜草津へと連なる街道沿いの地域の有力農民であった。(3)吾妻郡門人層は名主層、医業(赤岩村湯本家)、質屋業(原町木檜家、大戸永楽屋)、修験、神主などであった。 (4)群馬大学附属図書館蔵「新田文書」の解読・複写:新田文書『日記』(天和2年【1682】〜慶応4年【1868】)のうち、元禄4年.明和元年.9年、安永元年.2年.3年.4年.6年.7年.8年.9年、天明元年.2年.3年4年.6年.7年.8年.9年、寛政12年.13年、享和2年.文化7年.12年、文久3年、元治元年4月.11月の記事に馬庭念流関係の記事を抽出し、これを複写し熟覧、関係箇所を解読した。
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