(1)馬庭念流樋口家文書『従宝暦五門弟入帳』(1755〜1765:入門者九五三名が名前記載)に記載される門人で上野国内北部域のうち宝暦5年2月入門の白井町(子持村)在住の16名、および宝暦11年新井村8名、山子田村(現在の榛東村)11名に関して調査を行った。また信濃国佐久市、小諸市に分布した馬庭念流門人に関して各市教育委員会を通じて調査した。 (2)馬庭念流門人が存在した地域での学心一刀流、一刀流中西派、真之真石川流、気楽流での武術流派と馬庭念流との勢力関係を奉納額から検討した。一刀流中西派は、八幡八幡宮(やわたはちまんぐう)(高崎市八幡町:文化15年)、群馬町足門鎮守八坂神社(弘化2年)、碓氷峠熊野神社(弘化4年)伊香保水沢寺(安政三年)への奉額が確認された。真之真石川流は、榛名神社(群馬郡榛名町:文政5年)産泰神社(埼玉県本庄市四方田(しほうでん):天保10年)富田寺(ふくでんじ)(本庄市富田:弘化4年)の三枚であった。学心一刀流は榛名山神社御幸殿(みゆきでん)外側と額殿(安政五年)、大宮巌鼓神社(おおみやいわづつみじんじゃ)(慶応元年)、気楽流は碓氷峠熊野神社(文政9年)、群馬郡川島村甲波宿祢神社(かわすくねじんじゃ)(嘉永7年)に奉額した。 (3)樋口家文書のうち流派勢力に関する記述のある書簡を解読した。一つは、伊香保一件直後の千葉周作の北辰一刀流の様子を馬庭念流松本定八が樋口十郎右衛門に宛てた手紙である。また樋口家文書「山口藤四郎より樋口重郎右衛門へ」書簡に山口藤四郎の葛藤と転流について著されている。
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