当該研究課題名のもと、1930年代に時枝誠記が京城帝国大学において続々と公表してきた言語理論に関する諸論文(1940年に『国語学原論』として結実)の検討に力を注ぎ、時枝の言語観のなかに、1927年から1943年まで在職していた京城帝国大学法文学部での言動を導いた原因を探った。時枝は朝鮮人の母語を「国語」にすべきでありそれこそが「福利」であるという主張をおこない、それが京城帝国大学での教え子であった朝鮮総督府学務局の官僚の所説に根拠をあたえることになった。こうした言動をとることになったのは、朝鮮総督府と京城帝国大学の間にあった政治状況が契機として考えられ、そのための理論的下支えとして時枝が形成していた「言語過程観」をもちいたのである。「言語過程観」においては、言語は表現行為の過程であり、話し手の「主体的価値意識」を重視していた。しかしながらそこには「主体」設定の曖昧さがあり、「国語」の「主体」に、「日本語話者」ばかりでなく「朝鮮語話者」がなんの留保もなく入りえたことが大きな問題となっていった。時枝が、「主体」というものを曖昧に設定し、「主体」を国家なり社会なりに唯々諾々として従う存在として見たことが、問題の根本にあるが、要は「言語」というものの捉え方における「場面」の位置づけ方、あるいは「主体」と「場面」との関係の捉え方が、[主体]の独自性を活用する方向でなされなかったところに、その時その時の政治的状況に親和的な言辞しか吐けない言語理論を構築してしまった原因があろう。言語の存在条件であるからといって、「主体」が一方的に「場面」に「顧慮」すると考えてしまったのが、時枝の議論の陥穽であった。時枝は「場面」→「社会」→「国家」という形で、「主体」を規制する側を拡大させていったのだが、その逆の可能性つまり「主体」が変化させうる対象として「国家」を捉えることが可能であったかが今後の検討課題となる。
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