1.鏡像としての分身 研究史的アプローチ=自然哲学史、博物誌的研究-バルトルシャイデス/認知心理学的研究-R.グレゴリー これらの文献は直接テーマの中に入ってくるわけではないが、鏡をめぐる創造論(「増殖、置換、逆転、拡大縮小、膨張圧縮」バルトルシャィデスS.53--これはフロイトの『夢判断』、ヤコブソンの詩論と繋げると興味深い)或いは鏡像把握の生理学的プロセスは、スクリーンと鏡の違いを明らかにしている。 記号学的アプローチ=ウンベルト・エーコ 鏡の屈折光学的表象の記号学的位置づけは、表象とモノとの繋がりを分析する際に必要な基礎である。 精神分析学的アプローチ=M.テヴォーによる画像のラカン分析は言語に偏りがちなシニフィアン問題に新たな方向性を与えてくれるものである。ジジェクのどちらかといえばストーリー分析の映画論を補う鍵となろう。 2.表象と分身=カントロヴィッチによる「表象」と呼ばれる王の二重の身体論をもとにして表象の歴史、定義をギンズブルク、T.クレインで辿る。表象と分身関係が代替と模倣的喚起、不在と実在の問題に繋がることを確認。 3.遠近法=均一表象空間の成立(主体確立と連携して)をパノフスキーで確認した後、その主体の位置の不在(消点)、あるいは身体のゼロ点化をロトマンに見た。つまり表象されないシニフィアンの主体としての分身。分身は志向性の網目の中に捉えられるとはいえ、それは主体の反転としての不在を表象するのだ。 4.映像の表象 記号学的=鏡の記号学との類似相違点。パースを下敷きにしたR.クラウスのIndex理論による写真時代(複製技術)の芸術分析。"shifter"という指示対象の不定性。 認知心理学的=「スクリーンは鏡」理論批判のための布石。ラカンの言語中心主義をいかに画像のシニフィアンに広げることができるかが今後の課題。或いは、カント、ブレンターノ、フッサールの構想力、志向力、ノエシスというタームで捉えられてきたものとの繋がりを見出したい。 5.モノ=カントの保留した物自体という概念は主体の確立を脅かす存在ではない。だが単眼(遠近法)自動化メディアによるSpurensicherungの結果、主体なき表象が可能となったと言うことになる。アウラ、アレゴリーをめぐるベンヤミンの表象論をさらに「媒介されない弁証法」とみるM.ジェイをキーに方向性を確認。
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