本年度は〈宮沢賢治〉像の流布と、その受容の様態について、戦中期から GHQ 占領期を経て、現代にいたるまでの期間を対象に検討した。その結果、〈宮沢賢治〉像における、その時々の時代状況に対応した弾力的な価値の再編成と、それに伴う受容の維持を可視化することができた。 1.宮沢賢治は死後、作家の“生活”の豊かさを基軸とした価値編成が行われたが、戦中期には、総動員体制下の文学場から《素人性》《私事性》という文学的価値の認定をうけることで、民衆の自発的な戦争協力を促す役割が割り振られていた。戦時下においては総動員体制と深く結びついたところでイメージ形成された〈宮沢賢治〉は、しかし1945年8月15日、終戦をむかえることで、批判の対象となり、ひいては作品ごと棄却される可能性が胚胎することとなる。2.ところが、戦後国定国語教科書への「どんぐりと山猫」「雨ニモマケズ」採用が端的にあらわすように、GHQ占領期においては逆に“戦後の今こそ見直される価値がある”という現在性が喧伝されたことで、〈宮沢賢治〉は批判をかわし、総動員体制との繋がりが覆い隠すことができたと言える。この動きは、当時の文学場と学校教育場の両方で見ることができる。3.こうして戦後においても称揚された〈宮沢賢治〉の価値は、作品あるいは伝記が教材として採用されることを通じて再生産され、今日にいたるまでその有用性が認められている。4.加えて、学校教育場における再生産は、宮沢賢治の名前を浸透させた。その結果として、ポピュラーカルチャーにおける〈宮沢賢治〉の引用の頻出を考えることができる。
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