研究課題/領域番号 |
12J01943
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研究機関 | 大阪大学 |
研究代表者 |
旗手 瞳 大阪大学, 文学研究科, 特別研究員(DC2)
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キーワード | 吐蕃 / 吐谷渾 / マガトゴン可汗 / ガル氏 |
研究概要 |
7月14~16日に開催された第49回日本アルタイ学会(野尻湖クリルタイ)において「吐谷渾からアシャ国('A zha yul)へ-7~9世紀の青海省東北地域」という題で報告した。報告で示した内容は、以下の通りである。 1、吐蕃支配下の吐谷渾国(アシャ国)の領域は、青海省東北地域に限られる。2、吐谷渾国のマガトゴン可汗(アシャ王)は、黄河上流域と蘇干湖盆地に牙帳を設置し、その両地点の間を自由に往来した。それは1、の領域の相当部分をカバーする。3、敦煌漢語文献や漢籍史料に記録された「退渾国」「吐渾国」は吐蕃支配下の吐谷渾国に他ならない。吐蕃の分裂・崩壊とともに、敦煌では帰義軍政権が勃興し、856~857年に吐谷渾国は帰義軍の遠征を被るようになっていた。 さらに第46回中央アジア学フォーラムにおいて、「吐蕃統治下の吐谷渾国とガル氏粛清事件」という題で報告した。報告で示した内容は、以下の通りである。 1、659~666年まで、吐蕃中央政権の重臣ガル・トンツェンが、吐谷渾征服の総司令官を務めた。トンツェンの死後、吐谷渾の地域において、軍事活動を担ったのは息子のチンリンとツェンワである。吐蕃の吐谷渾征服と初期の統治の時期において、指導的立場を果たしたのは、ガル氏一族であったと考えられる。2、698年、吐蕃本国でガル氏が徹底的な粛清を受けた結果、チンリンは自殺しツェンワは唐(周)へ亡命するに至る。同時に吐谷渾人の大規模な離反が発生した。これらの事件から、吐蕃による吐谷渾統治はガル氏粛清を契機に、非常に危機的な状況に陥った。3、706~714年にかけて、吐蕃中央政権の大臣が吐谷渾国、特に吐谷渾王のもとをたびたび訪問した。それら吐蕃の大臣はド氏・バー氏・チョクロ氏の出身であり、ガル氏粛清後、中央政権で新たに権力を握った氏族である。さらにチョクロ氏と吐谷渾王が婚姻関係を結んだ。そこから、新たに政権を担う諸氏族が、自身の氏族出身の大臣を派遣し、吐谷渾王との間に緊密な人脈のパイプを築こうとしたことが想定できる。 8月から9月には、吐谷渾国が存在した青海省がどのような特徴を持つ環境にあるかを把握するために景観調査を予定していた。9月20日から27日にかけて、青海省の西寧・青海湖・都蘭を訪問した。この調査では西寧から西へ向かい、日月山を越えた。日月山は唐と吐蕃の国境として名高い赤嶺である。そして、実際に日月山の峠を挟み、西側は遊牧の世界、東側は農耕が優勢な世界であることが、景観から改めて理解できた。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
当初、平成24年度中に、敦煌チベット語文献「新カルツァチン千戸長に関する訴訟断巻」(IoL Tib J 1253)の全訳注を完成させ、投稿することを目標としていた。これは達成できなかったが、12月の発表の成果をもとに「吐蕃による吐谷渾支配とガル氏」という題で論文を完成させ、3月に『史学雑誌』に投稿することができた(平成25年度5月上旬に結果が判明する予定である)。
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今後の研究の推進方策 |
当初、研究に際して現地調査・史料調査に重点を置いた計画を立てた。しかし25年度は、平成24年度までに行った調査・研究の結果をまとめ、口頭報告と論文発表を行うことに重点を置く。この点が当初立てた計画と大きく異なる点である。
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