群島国デンマークの中で例外的にドイツと地続きの半島であるユラン地方の地理的イメージが、19世紀各世代のデンマーク文学テクストにどのように描かれているかについて研究を進めた。第一に、都市コパンハーゲンとユラン地方の文化的対立および風景イメージの対照性に関する議論を整理することとし、舞二に両者の対立関係や文化的交渉が辿った世代的変遷を検討した。 研究計画全体の縦軸をなす第一の作業は、コペンハーゲンとユランの風景表象が個別の変容を遂げたことを前提としつつも、文学テクストにおいて両者のイメージの間に干渉や循環が認められる点に特に留意した。そのもっとも顕著な例証を、セーアン・キェルケゴールの著作集rあれか=これか』に求めた。同書は、著者が生きた1843年前後のコペンハーゲンの都市風俗を前提としつつも、それに先立って執筆されたユラン旅行記における地方経験と深く結びついている点に特色が認められる。都市風景をオリエンタルな形象とともに描くキェルケゴールのコペンハーゲン像は、他方においてユランの荒野風景をオリエントの荒涼たる風景に見立てようとする同時代の言説とパラレルな関係にあり、ここにおいてオリエンタリズムを媒介とする都市イメージと荒野イメージの類推関係が成立する。 さらに第二の作業においては、1880年代のコペンハーゲンを舞台とするヘアマン・バングの小説『化粧漆喰』を分析対象とした。その際、第2次シュレースヴィヒ戦争(1864)前後における都市と地方の風景の変容という歴史的背景に留意しながら、第一の作業と同様、コペンハーゲンとユランのイメージの間にみられる交渉関係を明らかにした。その上で、19世紀前半の反都市的な荒野イメージの記憶が、初期モタニズム時代における都市の風景表象に介入していることを考察し、コペンハーゲンとユランの間に間世代的なイメージ共有が認められることを明らかにした。
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