本研究は、清代モンゴルにおける牧地紛争および牧地利用を研究対象とするものである。平成26年度は、モンゴル国立中央文書館所蔵の公文書や地図などの一次史料を利用して研究を行い、以下のような成果を得た。 まず、清代外モンゴルの牧地変動期であった乾隆41(1776)年頃に盟レベルで始まったトシェート・ハン部左翼前旗とサイン・ノヤン部ウールド前旗との牧地紛争の実例を、紛争処理の側面からつぶさに分析し、両盟・旗の牧地境界画定の経緯を解明した。両盟・旗の牧地境界は、乾隆46(1781)年に清朝皇帝の命令でウリヤスタイ将軍バトが設置した2基のオボー(石積み)によって初めて画定され、その後の牧地紛争の処理過程でのより明確な画定やオボーの増設などによって一層完備されていき、道光27(1847)年に最終的に決定されて、清末やボグド・ハーン政権期(1911-1921年)まで維持されていた。ここから、従来の研究で強調されてきた乾隆46年の盟界画定作業とは、初期段階における牧地境界の大まかな画定に過ぎなかったことがわかる。これは、盟旗間の牧地紛争が終息していく過程で、清朝の盟や旗の境界画定政策が徐々に外モンゴルへ浸透・定着していったという、前年度の検討によって示された見解の裏づけとなろう。 次に、咸豊5(1855)年から光緒7(1881)年にかけて外モンゴルのトシェート・ハン部中右末旗内の一般平民とイフシャビ(外モンゴル最高の活仏の隷属民)との間で発生した牧地紛争の処理過程を詳細に検討した結果、旗の平民と同様にイフシャビも、同治4(1865)年頃から旗の牧地冊子に正式に登録され、その放牧地は基本的に特定の旗の枠内に制限されていた。ここから、イフシャビは、「ハルハ(外モンゴル)4盟のどこで遊牧してもかまわない」と言われてきた当初の自由な遊牧権を清朝支配下で徐々に喪失していったことがわかった。
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