本年度は、昭和初年代にアルス版『フロイド精神分析大系』の訳者であった林髞(木々高太郎)の小説『網膜脈視症』(「新青年」昭和9/11)について考察した。同作はS.Freudの原典に依拠しており、それは高太郎が1920年代のFreudにおける自我とエスへの転回(第2局所論)を正確に捉え、紹介していたことを反映している。また同作はOtto Rankを高く評価することで、RankがFreudと異なり不安Angst神経症の治療のために反復Wiederholenを重視していたことを、物語の中で表現していた。高太郎の執筆活動は、精神分析学・日本文学史・精神医学史などの中で新たな評価が与えられる。以上を日本近代文学会にて口頭発表した。 また多分野で広く言及されるJacques Lacanのセミネール"Les quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse"(1973)の、国内外でいまだ読解が不完全な部分について読解を行った。Lacanは Tinbergenら本能行動についての動物行動学の研究を参照する一方で、その説がとりわけ擬態を適応adaptationとみなす点をRoger Cailloisの説によって批判し、まなざしregardの理論へ発展させた。それは視覚における欲望の原因を、擬態を含む絵tableauの効果によって説明する。この関係を光学における虚像と実像の比喩によって示したことは、江戸川乱歩『鏡地獄』(「大衆文藝」大正15/10)にも通じるものである。以上は、「言語情報科学」に受理・掲載された。 これらの研究は、変態心理学および変態性欲学が動物一般の本能行動を措定し、そこからの逸脱を人間の欲望の本質たる特徴とみなすものとすれば、その広範な影響の下に日本に導入された精神分析という学問形態においてこれを発展させ、一般理論の構築と日本文学への応用を志したものであり、これによって本研究の総合がはかられたと言える。
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