1.郭店一号楚墓から出土した古文テキストの『緇衣』と、上海博物館所蔵の古文テキストの『細衣』、今文のテキストである現行本『緇衣』を比較し、中庸・表記・坊記・緇衣四篇の成書年代が戦国初期まで遡る可能性が高いこと、四篇が子思学派の手になる一連の著作であった可能性が高いこと、郭店楚墓出土の『緇衣』と上海博物館所蔵の『緇衣』が同系統の写本であることなどを明らかにした。 2.上海博物館を訪問して上海博物館所蔵の『周易』を検討し、卦画・卦名・卦辞・爻辞などの『周易』の基本構造が確立した時期が、近藤浩之氏が言う戦国中期末以降ではありえず、遅くも春秋初期に遡ること、『周易』が春秋末から戦国初期にはすでに儒家の経典になっていたこと、儒家が戦国中期から戦国後期にかけてすでに易伝を著作していたこと、したがって『周易』が儒家の経典になった時期を秦漢の際や漢初に求めてきた平岡武夫・津田左右吉・武内義雄などの通説が成り立たないことなどを明らかにした。 3.『春秋』の成書年代を前338年以後とする平勢隆郎氏の一連の研究に再検討を加えた。郭店楚簡の写本の記述内容や孟子と『春秋』との関係、『春秋』及び三伝の性格、戦国王権の性格などを検討した結果、平勢説が決して成り立たないことを論証するとともに、平勢説が立論の根拠としている立年称元法の存在や、『左伝』における木星の位置が前三五三年から前二七〇年のものに一致するとする計算、三伝に斉・韓・中山三国の王権正統化理論が存在するとする理解などにも、重大な疑念があることを論述した。
|