カトリックの宣教師たちが、布教と併行して南米などの多くの土地で住民のスペイン語化・ポルトガル語化を押し進めたことは明かな事實である。では十六世紀後半以降、中國に押し寄せたカトリック・ミッションは、中國の言語と如何に對峙したのであろうか。またその結末は如何なるものであったのであろうか。 極東において、ある意味では自分たちの文明よりも遙か高度に發達した文明及びその言語と向き合うことになった彼らは、それまで採用してきた布教方法にも質的轉換を強いられるようになる。そのため適應主義の戰略がイエズス會巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノによって策定された。適應主義の行き着くところは、言語的にも中國語世界への同化であり、他の諸地域で生起したような言語的征服は生じ得なかったのである。 十六世紀末以來、イエズス會が中國において採用した適應主義的布教法は、時としてカトリック本來の教義に抵觸しかねないものであり、反イエズス會諸派の猛烈な批判の對象となった。イエズス會士は、支配層に取り入る必要から、主たる布教の對象を知識人に求め、當然ながら知識人の言語生活に不可缺な「文語」の學習に力をそそぐことになった。一方で反イエズス會のほうでは、むしろ福建をはじめとする地方の一般大衆に布教する道を選んだ。 この態度の違いが彼らの中國語研究にも大きな影響を及ぼしている。イエズス會では、上に見たように當初から中國語の組織的な學習に熱心で、彼らが中國語に關して行った研究や著作は、非常に水準の高いものであった。しかし皮肉なことに、彼らの仕事はヨーロッパでは廣く利用されることがなかったのに對し、ドミニコ會士やフランシスコ會士の編述した辭書や文法は、むしろ盛んにヨーロッパの學者たちに用いられ、やがてヨーロッパ中國學の發展に大きく貢獻することとなる。
|