ニコラ・トリゴー(金尼閣)の編述になる『西儒耳目資』は、はじめてローマ字を用いて組織的に漢字の注音を行ったという意味で、中國語史の第一級資料であることは衆知の事實であるが、一方でまた中國のカトリック傳道團が中國國内で行った傳統的な整版による、しかもローマ字を大量に含んだ出版物として、白眉とも言える存在である。今日では非常な稀覯に屬し、世界でも殘存するものは十點を越えない。さて『西儒耳目資』の音注方式は極めて完成したもので、そこに至るまでの漢字ローマ字音注の歴史はかなり曲折を含む試行を經ているものと考えられるが、初期の材料は決して多いとは言えない。かつてバチカンにあり、現在大英圖書館に所藏される「中國のアルファベット」寫本は、中國近世の民間で用いられた「上大人」を寫したものであり、各文字に附されたローマ字音注は、『西儒耳目資』以前のローマ字音注の歴史を探る上で極めて興味深いものである。その音注を細かに分析すると、官話音と粤語音の奇妙な混合であることがわかり、さらにそこに附された説明書きを検討すると、1555年以前に書かれたものであることも理解される。この時代は後世葡萄牙の根據地となるマカオがまだ建設されていないほどの早い時期であって、恐らくは葡萄牙の商人が廣東沿岸部において地元の中國人から、中國の文字に關して聞き書きをした最古の記録であると推察される。この寫本そのものはもちろん出版されたものではないが、後の『西儒耳目資』にまでつながる最初の遺物である。
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