敦焼石窟から発見された写本の大半は、仏教の古写本であり、時代的には北魏時代5世紀から北宋時代10世紀にわたるものであった。 これらから、書写の形式や一紙に書写されている行数、さらには一行に書写される字数などに時代的な特徴を有していることがわかり、同じグループの僚巻もほぼ同じ規格で書写されているものが多いことがわかる。 太和三年(479)の書写奥書を有する『雑阿毘曇心経』巻第六(S.996)は、一行に十七字が書写されているが、これが一行十七字で書写された最も早い事例の一つである。この一行十七字は、これ以後の写経の規格となったものである。一行十七字という規格は、一行十四字である北宋時代の勅版一切経(開宝蔵)や高麗版一切経を除く、版本の一切経などにも受け継がれていく。 隋時代7世紀初期には、一紙に書写される行数が二十八行となり、唐時代ではこの規格が一般的になり、唐時代の天宝年間(742-56)頃まではこのような規格でほとんどの経典が書写された。 唐時代7世紀後半の写経で特筆すべき写経は、「長安宮廷写経」と呼ばれている一群の写経である。これらは一紙の大きさが47cm前後であり、いずれも一紙三十一行という特別な規格で書写が行われている。 以上、北魏時代5世紀や隋・唐時代7世紀を中心に、それぞれの時代に共通した書写の形式があり、料紙や行数などにも共通点があることが知られる。 これらが後の印刷物の規格に繋がったものと見られる。
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