平成13年度には、明治以降の都市的な生活様式の普及によって、伝統的な死の対処のあり方、慣習がどのような変化を被ったか、それにともなって死や生についての意識がいかに変遷してきたかを明らかにすることを目的として、当時の新聞雑誌等の活字資料の資料と収集と分析をおこなった。 中江兆民の葬儀に関する論(『続一年有半』等)と実際におこなわれた葬儀(最初の「告別式」)の事例について分析を加え、当時の啓蒙的な葬儀改革論やそれに対する新仏教運動など当時の仏教界の対応等について詳しくみた。中江兆民は仏学者、政治家、実業家、社会運動家としてよく知られており、癌を告知されて執筆した生前の遺稿『一年有半』『続・一年有半』は非常によく読まれた。中江の末期が、そこに著された無神論的な死生観の通りのものとなるかについても非常に注目された。中江は自らの葬儀が遺稿の通り行われることに執着したが、周囲の改革的考えを持つ者達の中にさえ、それを中江の「わがまま」ととらえる見方があった。明治30年代において、「告別式」をはじめとする中江の葬儀に対する考え方は、生活改善を目指す一部の人々には受け入れられたが、一般大衆にまでは受け入れられなかった。中江の葬儀は「告別式」の口嚆矢であるばかりでなく、1970年代以降に一部の医学関係者たちによって説かれるようになり、1990年代以降には一般の人々にも徐々に広まりつつある、「葬儀を自己の生の最終表現としてとらえる考え方」の嚆矢でもあったことが指摘できる。 以上の分析については、『東京大学宗教学年報』19号(2002年4月刊行予定)に論文として発表した。
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