道徳の基礎づけの試みは、何を道徳と考えるかによってその基礎付け方も異なるとはいえ、それらの試みは、なぜ道徳的であるべきかという問題については、どこかで「内在主義的性格」を抱え込むことになる。このことは道徳を道徳外の根拠だけから基礎づけることが困難であることを意味すると同時に、どこかで基礎づけの論証が循環構造を孕むことをも意味している。さらにまた、道徳は最終的にその道徳を受け入れる人にとってのみ拘束力を持つ、あるいは従うべき理由がある、という「道徳の自足的妥当性」を意味することにもなる。社会学者のN・ルーマンは、道徳的コミュニケーションには人格に対する尊敬と軽蔑への指示が含まれていて(自明なものにとどまらない限り)闘争を喚起する原因になりかねない危険な側面があることを指摘しているが、上述の道徳の自足的性格は、ルーマンが指摘する道徳の危険性を後押しする機能も果たしている。 こうした前提のもと、本研究では、(1)古代・中世の「道徳の基礎づけ」論では内在主義的傾向がありながら、その傾向は「人間の本来的目的」や「神の命令」といった条件の下で顕在化しづらかったこと、(2)そうした条件が希薄になった近代の社会契約論や功利主義による基礎付けでは、「幸福のため」、という外在主義が顕在化する反面、道徳的であるべき必然性も弱まることなどを確認した。そして(3)こうした外在主義との対比で内在主義的道徳理論の典型とされるカントの「道徳の基礎付け」を取り上げ、彼の場合もその内在主義が当初から目指されていたわけではなく、むしろ『道徳形而上学の基礎付け』における基礎付けの失敗の後、発想の逆転を経て「理性の事実」として(ある意味で不本意な形で)形成されたものであることを確認した。 ところで(理性であれ自然であれ)「事実」をもって基礎づけを完結させる内在主義に対しては、常に独断の嫌疑がかけられ、さらにはルーマンが指摘する危険性も付きまとっていると言える。しかし反面でそうした内在主義にまつわる諸問題を乗り越えるヒントもカント倫理学には隠されている。それはカントの『基礎付け』で取り上げられていた「理性の自然的性向」である。これは、理性を弁証論の深淵に導くことになる一方で、理性を内在主義の独善性から解放する可能性も宿している。つまり道徳そのものが「事実」なのではなく、不断に道徳を基礎づけようとする「性向」を「事実」と考えることで、基礎付けの終点を見いだせない代わりに、道徳的諸価値だけでなく道徳的視点そのものは反省や批判に開かれ、ひいてはルーマンの言う道徳の欺瞞性や暴力性を抑えることができるようになると考えられる。
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