本研究の目的はプラトンの初期対話篇を対象として、「対話」ということばによる探求の在りかたを解明し、その意義を明らかにすることにある。プラトンが描いた「対話」とはたんなる思考の痕跡ではなく、問う人と答える人(そしてその対話の場に臨む人)によって織りなされる運動である。そして、ソクラテスの対話による探求はいつもアポリア(隘路、行き詰まり、困難)に陥る。もしソクラテスの対話が論理的な論証を志向しているのであれば、それは探求の挫折であり、たんなる失敗と見なされる。しかし、ソクラテスの対話におけるアポリアはたんなる失敗ではなく、その探求の挫折のうちに汲みとられるべき何かがある。いや、むしろアポリアに陥ること自体をソクラテスの対話による探求の必須の局面として読み解くことができなければ、問う人と答える人によって織りなされる運動は何らかの教説へと還元され、ソクラテスはそうした教説の担い手と見なされてしまうことになる。というのも、ソクラテスとの対話が「神からの贈り物」(Apol.30d7-e1)であるのは、ソクラテスを受けとめることによってわたしたちがおのれの知の思いなしとその傲慢さから解放されるからである。すなわち、ソクラテスという贈与は何らかの教えをもたらすのではない。それはむしろ、わたしたちからさまざまな教説を剥奪することのうちに存しており、アポリアという局面においてまさに達成されるはずの営みなのである。本研究はソクラテスの探求がアポリアに陥ることの意義を対話の展開にそくして読み解き(研究報告書においては『ラケス』『プロタゴラス』『リュシス』『ゴルギアス』『国家第一巻』『メノン』を扱った)、このような「ソクラテス的探求の対話として構造」を明らかにした。
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