本研究は、康慶、運慶、快慶等によって新しい彫刻様式が打ち立てられた鎌倉時代前期の彫刻史を再評価するための試みである。従来の彫刻史研究では、摂関期に和様彫刻が大成され、その大成者の名を取った定朝様の彫刻様式が平安末期を通じて支配的であったが、平安末期頃に奈良地方から萌芽した新たな新時代の様式が慶派仏師の台頭と共に新しい時代様式となったとし、鎌倉時代の彫刻史、あるいはより正確に言えば鎌倉前期の彫刻史は慶派の彫刻史として語られてきた観がある。そして、彼等の代表的な遺品が奈良に偏在していることともあって、その語りを素直に受け取れば、造仏の中心がまるで奈良にあったかのようにさえ思えてくるのである。 今回の研究では、こうした従来の見解を検証するために、この時代の彫刻遺品の調査と、鎌倉時代に入る直前の時期である後白河院政期と、鎌倉時代前期に当たる後鳥羽院院政期の美術史に関わる史料収集を行った。遺品調査に関する成果は、鳥取長楽寺諸尊像のように、従来平安末期頃の京都仏師の作とみられていたものの中には、鎌倉前期に制作されたものがかなり混じり込んでいることが分かってきた。また、文献史料の分析からは、京都仏師、特に院派仏師の活動が盛んであった事も明らかに出来た。したがって、鎌倉時代前期においては、京都を中心に伝統的な仏所に属する仏師達の活動も盛んであり、従来の彫刻史研究はあまりに慶派仏師を中心に論じられており、これを見直す必要性があることを明らかにできたと自負している。
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