1、戦歿者寡婦特設教員養成所の設置は、1937年以降中国戦線の拡大に伴って増加した戦死者と戦歿者寡婦の生活不安を解消する施策として、厚生省が主導して具体化した。戦歿者寡婦特設中等教員養成所は東京女子高等師範学校に、戦歿者寡婦特設小学校教員養成所は6女子師範学校(東京・宮城・岐阜・兵庫・広島・熊本)に、戦歿者寡婦特設幼稚園保姆養成所は奈良女子高等師範学校に設けられた。兵庫養成所は1942年3月に廃止、奈良幼稚園保姆養成所は1943年3月に廃止・中等教員養成所に改編された。敗戦後、軍国主義を一掃するという占領政策の下で、小学校教員養成所は1946年3月、中等教員養成所は1948年3月に廃止された。 2、広島・熊本小学校教員養成所と東京中等教員養成所以外は定員を充足せず、全期間を通じた修了者は、小学校教員養成所では728人(定員760人)、幼稚園教員養成所では99人(定員150人)、中等教員養成所では246人(定員270人)であった。 3、生徒(177人、1939年入学)の学歴は、高等女学校卒137人、師範学校卒1人、実業学校卒34人、実業補習学校卒4人、青年学校卒1人であった。夫の軍隊における階級は、兵が39人、下士官が72人、将校が66人であった。127人が扶養すべき子どもを抱えていた。 4、厚生省が旅費・宿泊費を援助し、修了時に靖国神社、宮城への参拝旅行が実施された。天皇への感謝と神となった夫に「国家奉公の信念」を示す最も重要な行事であった。参拝旅行は1943年まで行われた。 5、教員となれたのは数十万に及ぶ戦歿者寡婦のなかではわずかでしかなかったが、個々の戦歿者寡婦にとっては経済的自立可能な職業を獲得するうえで恰好の制度として機能した。
|