1900年から1930年頃までの学級批判・改造論及びその理論的背景である個性教育論について、資料の収集と検討を行った。具体的には、(1)1900年以降進級卒業を認定を平素の「考査」によることにしたため、その基準が緩和され学力異質の学級が現出し、各学校内ではこうした学級成員の学力保障のため、学級内に等質小集団をつくったり、能力別学級編制が志向され、また政策的には、明治前期の試験制度の復活ともいえる一斉学力調査(外部テスト)の奨励による学校の教育水準の均一化と維持発展がめざされたが、訓育重視、知育の訓育化の動向の中で不徹底に終わらざるをえなかった、(2)履修主義型学校制度の背後にあるのは、学力の差異を能力の差異によって説明する素質決定論であり社会理論としては、個性教育という名の下での適材適所論であった。大正期以降勃興する測定運動は、テストの客観化など通じて学力を客観的に測り、進級卒業基準を明確化する可能性をもっていたが、実践的影響を与えたのは、これに内包される素質決定論であった。また個性教育論も、教授の側面では個別主義を徹底することにおわり、異質な個性が混在する学級の教授上における意味は発見されなかったこと、などを明らかにした。また、1930年代「国民教養の最低必要量」の確定を提起し、修得主義型の学校教育を発想した戦前教育科学研究会の学校・学級改革構想を検討するための予備的作業として、この研究会のトレーガー城戸幡太郎の、自由教育理論超越の論理を検討した。
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