1890年の小学校令改正以降、戦前期における学級の改造史を、履修主義型の進級制度の強化という視点から分析した。主要な結論は以下のとおり。 1 学級制の制度的成立(1891)後、1900年までは、依然として学年は年齢よりも学力によって区分されていた。学力より年齢によって区分された学年集団が出現しはじめるのは、1900年以降である。 2 年齢による区分の進行は、学級内の学力の異質化を招き、政府の学力増進という課題と相俟って、明治末には、「劣等児」教育を中心とする個性教育論が出現した。この中で、特別学級が主張されるが、学級の訓育機能を重視する立場から批判され、大勢としては、学級内に学力等を基準とした小集団を形成・指導する方向にむかった。 3 大正期半ば、新教育思想、知能検査等の実用化等を背景に、再び特別学級設置の動向が現れるが、他方で、学級共同体論等によってその広がりを抑制された。 4 大正期の自由主義教育論は(新カント派、経験主義派とも)測定運動などと結びついて、学力達成の差異を個性に還元することで、すべての人々の学力保障ではなく(到達目標-到達度評価)、個人の最大限の発達(方向目標-個人内評価)をめざし、そのため、学級そのものの不等質性を問題にせず、結果的に履修主義を強化した。 5 大正自由主義教育における永遠主義的教育観を批判し、学力の制作を主張した城戸幡太郎=教育科学研究グループは、「国民教養の最低必要量」の設定とその保障の課題を提起した。しかし、初等教育段階では、学力を機能主義的に捉えたため、初等教育における履修主義およびこれに基づく学級のあり方を批判できなかった。
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