本年度の研究によって、近世日本における中国語を中心とする諸外国語の受容・教授に関係するいくつかの資料が収集されるとともに、近世とりわけ鎖国期の日本における中国語の受容および教育の実態に関して以下の基礎的な史実が判明した。 江戸時代には二百数十年のあいだ鎖国状態が続いたが、外国の情報・文化は唯一の貿易港長崎を通じて絶えずに日本に伝えられていた。長崎では中国貿易とオランダ貿易とが行われていたが、前者が後者よりもはるかに盛大であった。それゆえ江戸時代を通じて一万人以上の中国人が長崎に渡り、中国語が広く日中貿易に用いられた。慶長八年より、長崎奉行を補佐し唐人貿易を管理する役職として唐通事職が設けられ、この職位につく地役人はすべて中国語に習熟していた。長崎貿易の展開にともない、唐通事の中国語教育は燗熟していった。 他方、日本国内で当時読まれていた漢籍には中国語の口語体で書かれたものがあり、従来の中国語の文章語を読解するための漢文訓読の方法では理解できずにいた。そこで漢学者たちの間に、中国語の口語を学習・研究しようとする気運が生じた。そのような情勢の下、中国語に堪能な唐通事たちは長崎を離れ、江戸・京都など内地に往き、漢学者に中国語を教え、一時期、内地に中国語を学習・研究する唐話熱を惹き起こした。このようにして、上京した唐通事たちと漢学者たちとの親交を通じて、中国語の口語の知識が長崎貿易のほかに、各地の儒学の研究にも応用され、生かされた。
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