近代国家は、国家の担い手としての次世代の育成を家族の任務として義務づけた。その際に登場した言説が、親の<教育義務>や<子どもの利益>、親子の<自然の愛情>である。本研究では、このような家族と教育をめぐる言説が、いつどのようにして成立したのかを分析した。<家族>は人類に普遍的な集団として理解されてきたが、家族という概念は戸籍法や民法の制定にともなって採用された新たな概念であり、明治民法によってはじめて血縁者と配偶者からなる家族の範囲が定められ、家族が扶養の単位として制度化された。明治初年、修身教科書には多大な子の自己犠牲と一方的な親への献身を讃える孝行譚が多く載せられていたが、明治20年代にはそうした孝行譚が減少し、明治40年代の国定教科書では、親子の<自然の愛情>や親の<教育責任>を前提としたものへと変わる。離婚に際して<子どもの利益>という発想が登場したのは明治20年代〜30年代であり、この時期の幼子を母が引き取って養育するのが子どもの利益だという言説が登場する。また、戦前、出生率の低下は女性の問題とは考えられていなかった。少子化を女性の問題として捉える発想は、戦後の性別役割分業の一般化がもたらしたものである。このように、明治初年以降、<家族>の制度化が進む中で、「家族は国家・社会の基礎単位である」「子どもを育てるのは親の責任である」「離婚は子どもにとって良くない」「少子化は女性の問題だ」といった、今日当然と見なされているが言説が形成されてきたのである。
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