本研究において、明治期の札幌農学校がアイヌ民族学の形成に果たした役割とその背景を中心に、この3年間調査した結果、以下の成果が得られた。 1.札幌農学校卒業生が博物館に寄贈したアイヌ資料は実際には少数であったが、当時の北海道開拓政策の背景もあり、アイヌに対する彼らの関心は高く、アイヌ民族学が芽生える素地は十分に整っていたことがわかった。 2.札幌農学校では、初代校長W・S・クラークの教え(キリスト教の教義)の影響に反し、当時の国内における進化論の流行を反映して、学内では人種論や近代国家の形成等について盛んに議論されるなど、社会や文化と進化論とを結びつけて論ずる風潮があり、当時多くの人々が抱いていた「アイヌ観」すなわち「原始的な民族」というイメージに根拠を与えたものと推測される。 3.札幌農学校末期に着任した八田三郎(動物学者、後にアイヌ民族学の先駆者の一人となった)は、スペンサーやモースの進化論に大きな影響を受けた箕作佳吉(動物学者、帝国大学教授)の愛弟子の一人であり、自身の動物学書の中に見られる明らかに進化論を土台にした人類学・民族学的志向性は箕作の影響であったと推測される。 4.以上の点から判断して、札幌農学校がアイヌ民族学の形成に果たした役割は、明治期に進化論やアイヌの話題が流行する社会情勢のもと、それらを受容、議論し、学問が芽生えるような土壌を準備したことであり、それに加えて、そのような状況の当時の農学校に、進化論の強い影響を受け、人類学・民族学的志向性を備えた八田三郎が着任したことが、アイヌ民族学形成の直接の大きな要因になったものと思われる。
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