1、本年度は主に平氏の譜第の御家人について考察した。その結果、平氏家人は、頼朝に一元的に統轄された鎌倉幕府御家人と違い、平氏一門を構成する各家とそれぞれ個別に主従関係を結んでおり、平氏の正規軍は、これら一門メンバーを中心とする軍事集団の、いわば「連合艦隊」であったことが明らかになった。その中でももっとも有力な軍事集団は、小松内府家と時子が生んだ一門主流の人びとのそれである。 2、2001年8月伊勢平氏会・軍記・語り物研究会・名古屋軍記物語研究会合同研究会主催シンポジウム「平氏と平家物語」において、上記平氏の二つの軍事的中心と有力家人たちの結びつきの具体相や、平家の武士たちが合戦にあたって、どのような指揮・編成のもとに戦ったか、などを考察し報告した。そこで明らかにしえたことは、(1)源平内乱期の前半において、小松家の御家人を統率していたのは・乳父である藤原忠清に補佐された嫡子維盛であったこと、(2)一門主流では、重盛亡き後名実ともに平氏の後継者になった宗盛が、多数の御家人を率いていた。(2)しかし、一門の総帥であり、平氏という巨大権門の公的な代表である宗盛が、自ら兵を率いて戦場に出るなど、実際にはあり得なかったため、彼の代官として宗盛家人の指揮を執ったのが、同母弟の知盛・重衡、ことに武勇を謳われた後者で、重衡は忠清の弟で宗盛の乳父・乳父子であった景家やその子供たちの補佐をうけながら、合戦を遂行した、などであろう。そして、そのような内容を文章化し、軍記・語り物・研究会の機関誌『軍記と語り物』に掲載した。 3、また、関連研究として、「朝敵」という語の成立を歴史学的に考察した。その結果、「朝敵」は謀反人と同義語で」その成立も漠然と古いと考えられているが、実際には源平内乱期において、頼朝によって初めて使用され、その対象はなによりも安徳天皇を指していたことを明らかにした。そして、なぜ朝敵という言葉が生まれたのか、この言葉は本来何を意味していたのかを明らかにする中で、内乱と平氏王朝・鎌倉幕府の性格を掘り下げて究明した。 4、その他、平氏関係の史料の蒐集および現地調査を行った。
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