日本の大学には一つも歴史学部が存在しないのか、その問いが本研究の出発点であった。そこでまず、なぜ欧米の大学には当たり前のように歴史学部が存在するのかを問うてみた。答えは、19世紀の半ば、自然科学のみならず人文社会科学にまで科学をもちこもうとしたとき、人文社会科学にも実験が必要になったからであった。その実験に該当するのが、ランケによって確立された実証史学であった。ということは日本の大学になぜ今に至るまで一つの歴史学部も生まれないのか、その答えはこの国に、実験(ランケ史学)を必要とするほどの創造的な人文社会科学が今に至るまで育っていないからだ、ということになる。所詮は翻訳応用型の人文社会科学しかこの国にはないからだ、ということになる。 ではなぜこの国の人文社会科学は、今に至るまで翻訳応用学の域に止まっているのか。その原因を、帝国大学創立以来の100年を越えるこの国の大学史の中に求めたのが本研究である。帝国大学令制定時の森有礼(初代文部大臣)や京大事件時の沢柳政太郎(当時の京都帝国大学総長)による創造的学問創出の努力が、ことごとく翻訳学至上主義的な研究者集団の抵抗にあって挫折し続ける有様をトレースした。とりわけ1919年に制定された大学令が、大学令の下位法規として温存された帝国大学令によって骨抜きにされていく有様を描いた。 なお日本にもランケ史学は持ち込まれようとしたが、久米邦武筆禍事件や『大日本編年史』の編纂中止などで阻止されたことも指摘した。
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