幕末維新期における対外的危機と諸階層の対応について、以下のことが判明した。全国動向と長州藩の動きを軸にまとめると次のようである。対外的危機への対応の画期は、1791年の幕府による対外防備令である。長州藩においては、それ以前の異国船漂流とは異なるレベルで対応を開始した。さらに、1807年のロシアとの対外緊張は、家臣団の在郷してまでの対応を諾起した。対外防備の強化は、軍事改革への取組みを伴って展開されたが、守旧的家臣団の抵抗もあり、順調には進展しなかった。1840年のアヘン戦争の情報は、幕府および水戸藩・長州藩などに対外的危機意識を発生させ、大規模な軍事訓練や西洋軍事技術の導入が行われた。しかし、危機意識の浸透は支配者層の一部にとどまり、民衆レベルの反応は起きなかった。1853年のペリー来航は、本格的な危機意識を発生させ、民衆レベルまで危機意識が浸透した。1859年からの貿易の開始は、経済破壊をもたらした。生活困窮した民衆は攘夷運動を支持し、このような社会の変動を基盤として攘夷運動は高揚した。対外的危機意識は、瀬戸内海沿岸村落において深化している。長州藩は、1863年下関海峡において攘夷を決行した。近隣の藩においては、当初は長州藩を支持する動きがみられる。また、民衆は農兵を結成し、対外防備が取組まれた。幕府に対する批判は、姦吏役人への批判から、政策そのものへの批判となった。そして、幕府では諸外国へ対処しえないと見限った段階で、幕府にかわるより強力な国家を創造する運動が現実のものとなった。対外的危機への対応をめぐって、討幕が段階を追って進展していったのである。
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