研究概要 |
律衆が戒律を重視した宗教活動を展開する遁世僧(聖)として位置づけるならば、念仏や禅を活動の中心に据える遁世僧とどのような関わりがあるのか、また顕密寺社勢力の展開のあり方として、律衆を位置づける私の見方に対する最近の松尾剛次氏の批判を検討する必要性から、さらに、南都仏教だけでなく他の顕密仏教において、律衆などの遁世僧の活動がどのようなものであったのかという観点から、今年度はとくに天台宗聖護院末粉河寺に焦点を当てながら検討をすすめた。結論を述べれば、粉河寺学頭顕栄によって粉河寺関係者の菩提を弔うために寺内に建立された遁世僧の別院誓度院は、弘安元年(1278)に当時の学頭仙実が別当(本寺聖護院)の支援を受けて、長老に持律の僧を迎え念仏系別院から律衆系別院へと改め、西大寺叡尊などによって粉河寺の堂舎供養がおこなわれた。さらに正応5年(1292)に粉河寺上層部によって心地覚心流の律院と変化した。そして誓度院僧が誓度院の管領権を粉河寺寺僧にかわって掌握するのは、永仁5年(1297)に大門供養導師を務めた覚心に対する「感喜」による寺家側からの譲りをまたなければならなかった。誓度院が臨済宗心地覚心流の禅院になろうとも、その後も粉河寺本寺聖護院を含めた上層部の影響をうけた。このように鎌倉末の粉河寺の誓度院の誕生・変遷の主体は粉河寺上層部にあった。律衆の社会的活動について顕密仏教勢力の「民衆」化として基本的に理解すべきであるが、門跡を含めた寺院勢力上層部も関わる点からその「権力」性も視野にいれて検討しなければならないことを指摘した。なおこの拙考は河音能平・福田栄次郎編『中世延暦寺と寺社』(仮)(法蔵館2004,5刊行予定)に寄稿した。また従来までの西大寺律衆に関わる諸拙稿を中心にまとめ、拙著『日本中世社会と寺院』清文堂2004,2)を刊行した。
|