日本中世顕密寺院勢力と律衆との関係をテーマにした研究である。南都西大寺などの律衆については、民衆への授戒活動や非人施行など、その「民衆」教化という活動の特徴から、従来の顕密寺院勢力とは異なる新たな宗教勢力という理解も登場し、彼らこそが中世を代表する宗教勢力という評価までなされてきている。本研究においては、律衆の誕生・展開を中世顕密宗教勢力の外縁部を形成した聖(遁世僧)の歴史展開の中で位置づけ、顕密宗教勢力の社会的対応として理解し、顕密仏教勢力の「民衆」化の一つの現象であるとし、その方向から研究をすすめた。 平安時代には、寺院社会から離脱して別所を形成し、民衆教化にも深くかかわった遁世僧(聖)が、平安末には重源の東大寺別所のように顕密寺院内に拠点を持ち、さらに鎌倉中期には西大寺律衆のように寺院運営の実権を別当から寄付され、寺僧に代わって寺院を管領する遁世僧も登場する。多くの中世顕密寺院境内に寺僧とは異なる遁世僧によって構成される寺坊が形成され、彼らの勧進活動や修造活動は顕密寺院を支える上で欠くことのできないものとなる。さらに南都寺院において顕著に現れた律衆(寺内遁世僧)は、天台聖護院末粉河寺においてもみられ、寺僧と寺内遁世僧の併存は南都寺院に限らず中世顕密寺院の特徴といえるものである。なお粉河寺の寺内遁世僧の成立には、寺僧とくに別当(本寺聖護院僧)や学頭など粉河寺僧上層部の意向が強く働き、その遁世僧も期待する役割によって念仏僧・律僧・禅僧と変遷する。このように律衆等の中世寺内遁世僧の活動は顕密寺院勢力と異質なものとみることはできず、むしろその時代的対応とみるべきである。
|