民国期の尊孔運動の母胎となったものは、変法派の孔教運動と清朝の尊孔政策である。この志向を異にする二つの要素が、民国尊孔運動の相反するベクトルを顕在化させることになる。 東洋文庫において収集した資料により、満州国国務院総理鄭孝胥を会長とする孔学会に関する知見を得られた。鄭孝胥は清末において、ジョク・ジャカルタの華商の要請に従って『孔教新論』という初級課本を編纂する等、独自の尊孔活動を展開していたが、その清朝の遺臣としての立場は民国においても一貫していた。民初、孔教国教化運動の主張を吸収しながら、帝政と尊孔政策を復活させたのは袁世凱であるが、孔学会は満州国においてそれを実現したのである。帝政を支える孔学会は官の色彩が強い組織であるが、宗旨においても孔「教」ではなく、孔「学」を強調した。満州国では国家行事としての尊孔祭祀は伝統的な春秋二回の上丁として、孔誕は民間行事として位置づけられた。海外華人社会では、むしろ孔教会が提唱した孔誕が受け継がれていったことと比較したい。 また、台湾中央研究院での資料収集では、江希張著『大千図説』への知見を得た。江希張は康有為の影響を強く受けつつ、儒仏道耶回の五教合一(実際は儒仏道三教)を説くものであり、その著作は一貫道の経典にもなっている。これにより康有為の民間宗教への影響、さらには万国道徳会との関係が明確になった。そもそも、清末孔教運動の主唱者は、文明の一神教(キリスト教)と野蛮な多神教という宣教師の描く構図をふまえ、邪教に走る中国庶民を正統な教えに導くことを願って、孔教の庶民への普及をはかった。その成果はかように、民間宗教の中に康有為の崇拝者を生んだが、民間宗教に取り込まれた孔教は、結局、伝統的な三教合一、さらには五教合一という多神信仰の中に溶解した。孔教運動が最も警戒すべきこの形態は、皮肉にもその宗教性の志向からもたらされたといえよう。
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