民国期の尊孔運動の母胎となったものは、清末の変法派による孔教運動、すなわち儒教の宗教化、国教化運動と、新政における尊孔政策である。この二つの要素は民国尊孔運動に相反するベクトルを与えることになり、やがてそれが顕在化していく。本研究ではその経緯が先ず明らかにされた。すなわち、儒教国教化運動は最終的に敗北するのであるが、以後、康有為の孔教会は民間宗教に吸収されていく。万国道徳会の教主江希張は、康有為の影響を強く受けつつ、儒仏道耶回の五教合一(実際は儒仏道三教)を説いたのであり、その著作は一貫道の経典にもなっている。孔教運動が当初警戒したはずの宗教複合形態が、皮肉にも孔教運動の目指した宗教性への志向からもたらされたのである。 ところで、清末民初の孔教運動は中国本土のみならず、日本・東南アジア等の海外華人社会においても共時的に受容され、伝播されていった。シンガポール、マレーシア、インドネシア等には現在なお孔教会が存続している。 清末、鄭孝胥はジョク・ジャカルタの華商の要請に従って『孔教新論』という初級課本を編纂し、独自の尊孔活動を展開していたが、その清朝の遺臣としての立場は民国において一貫していた。民初、袁世凱は孔教国教化運動の主張を換骨奪胎し、帝制と尊孔政策の復活をはかるも頓死した。鄭孝胥は孔学会を組織し満州国においてその実現を果たした。帝制を支える孔学会は官方の色彩が強い組織であり、その宗旨も孔「教」ではなく、孔「学」が強調された。満州国では国家行事としての尊孔祭祀は伝統的な春秋二回の上丁とされ、孔誕は民間行事として位置づけられた。海外華人社会においては孔教会の提唱した孔誕が受け継がれていったことは、その民間行事としての性格を際だたせるものである。
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