本研究は、第一次世界大戦終了から満州事変勃発に至る所謂「ワシントン体制」期において、20世紀前半東アジア国際政治展開の重要な争点地域の一つだった中国東北地方政府の対外政策決定過程において如何なるイデオロギーが如何なる形で反映していたのかを、日中双方の当該期対外政策に正当性を与える主要なイデオロギーだった「文明」に着目しつつ解明することを目指したものである。 その際、当該期中国側現地政府の政策決定過程に関する現地档案館の調査は不可欠な作業となる。しかし、海外出張調査を予定した年度にSARS問題が発生し、現地資料調査を断念せざるを得なくなった。このため、研究作業の主眼を、現地中国側地方政府外交の制度的および現地社会的基盤の確認と、日本側諸史料に反照的に現れる中国側「文明」観を摘出していくための史料基盤整備に変更して作業を遂行することとなった。 その結果、別途提出冊子第1章では地方外交の制度的前提と在地社会との連関性を、第2章では非「文明」的諸活動の存在とその抑制政策が現地政治状況展開の背景的要因となる点を、さらに第3章では、日中間の「文明」観相克の一つの帰結でもある「満洲国」で、「文明」の典型的表出形態でもある科学的調査を全面に押し出した興亜院が現地日本人社会において如何に認識されていたのかを検討した。また、第4章では、今後の研究の資料環境整備を念頭に、中国東北地域における「文明」度被測定的位置付けを与えられることで反照的に日中双方の「文明」観を浮き出させることとなるモンゴル人に関する史料を、さしあたり日本側の現地最大発行新聞から摘出し目録・解題の形でまとめた。
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