報告者は科学研究費応募期間中の2000年より対明外交儀礼研究の予備的調査に着手し、朝鮮王朝(李朝)建国期より第4代朝鮮国王世宗代までの約50年間(1392〜1450年)に関しては大略その見通しをつけた(桑野栄治「朝鮮初期の対明遥拝儀礼-その概念の成立過程を中心に-」『比較文化年報』第10輯、2001年3月、101〜147頁)。これを基礎に、科学研究費交付初年度の2001年度にはひきつづき官撰史料の調査・収集に力点を置き、ひとまず15世紀後半の第7代国王世祖代(1455〜68年)に時期を絞って対明儀礼の実態を整理・分析した。その成果の概要は以下の通りである。 1 分析対象とする史料は官撰の『高麗史』『李朝実録』を中心とし、地理書・儀軌類を参照しつつ、毎年正月元旦と冬至に朝鮮の王宮内で実施された望闕礼・朝賀礼・会礼宴の整備過程とその運営について検討した。その結果、世祖は治世後半期になると明の皇帝を遥拝する望闕礼を放棄し、その行動様式が歴代国王とは異なることを明らかにした。 2 世宗も晩年は望闕礼を実施せずに王世子または百官に代行させたが、世祖は治世後半期に王世子による代行さえ認めなかった。ここに世祖代の王権強化策を看取できる。 3 その一方で世祖は中国の皇帝のみが行いうる祭天儀礼(圜丘壇祭祀)を王都漢城の南郊で実施しており、朝鮮初期の儒者官僚の対明観・皇帝観を覆す異例の行動であったことを浮き彫りにした。また、望闕礼後の朝賀礼に日本人と女真人が最大500余名参列した記録に注目し、世祖代は朝鮮を中心とする華夷意識が顕著であったことを跡づけた。 以上のように朝鮮世祖代の儀礼空間を15世紀前半の諸事例と比較検証した結果、世祖の在位期間は明中心の冊封体制に対峙する稀なる時代であったと結論づけた。次年度以降は成宗代(1469〜94年)と高麗末期(14世紀後半)との比較検証を計画している。
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