(1)海外学会への参加とそこでのポジション・ペーパーの発表は、2001年8月9日から11日にかけてヴァンクーヴァーで開催されたアメリカ歴史学協会太平洋支部で達成された。 (2)発表前の日本での調査によって、19世紀半ばから20世紀にかけて日本が南太平洋、南洋に向かって進出を行い、その地域の盟主となることを狙っていたこと、しかし、その進出の真の目的が、合衆国を含めた西洋列強が同じ地域に構築した覇権への対抗にあったため、南太平洋地域に関する客観的な知識の集積は日本では少なく、そのため、地理学的な南太平洋の概念が常に揺れ動いたことなどが、志賀重昴、竹越与三郎の著作などから明らかになった。発表ではそれを指摘するとともに、さらに、第二次大戦後は、戦前にひろまった地政学的知識を小中学校の生徒に教えることをGHQが禁じ、冷戦秩序にのっとって日本の国際復帰が認められるまでは、新たな太平洋のイメージが日本では築かれなかったことも明らかにした。 (3)戦後日本の太平洋観の構築に合衆国の外交政策が関与していた可能性にはフロアから質問が出た。雑誌『Pacific Historical Review』編集部が同誌への論文の寄稿を勧めてきている。戦前から占領期にかけての日本における太平洋像の変成と、同時代のアメリカ合衆国における太平洋像の構築との連動を一次資料に基づいて跡付けることを今後の課題とする必要がある。 (4)20世紀転換期に合衆国西海岸で開かれた、太平洋万国博覧会に関する資料調査を、上記の学会発表後にシアトルのワシントン大学で行った。この予備調査をもとに3月中旬に再度当地へ赴き、おもに実業界を中心とした博覧会の実行員会メンバーが抱いていた太平洋世界像の追跡を続けた。なお、同博覧会のノウハウはその後、日本で開かれた二つの博覧会に受け継がれた模様で、その調査も、二次文献の収集と並行して行っている。
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