19世紀末にリトアニアの郷土派が活躍した政治空間は、往時のリトアニア大公国領、すなわち現在のリトアニアとベラルーシをカバーするものである。1992年の旧ソ連体制の崩壊直後、この地域では「諸民族の共生」を掲げた郷土派の言説に一躍関心が高まった。しかし、勃興した各地域のナショナリズムの高揚により、理想主義的な郷土派の言説は民族の大義の裏切りとみなされるなど、必ずしもポジティヴな評価は得られていない。平成15年度の研究では、郷土派の論客のひとり、ミハウ・レメルの評論をたどり、とくにその子孫の回想録を分析対象とした。検討の結果、帝政ロシアが19世紀後半、この地域に広く居住していたロシア旧教徒を意図的に非ポーランド化、すなわちロシア化政策の尖兵として利用しようとした経緯を確認できた。同様の経緯を帝政ロシアによる同時期のウクライナ人政策、ユダヤ人政策にも確認でき、19世紀後半における帝政ロシアの民族政策の特質を検証することができた。これらを複合したものこそ「ポーランド問題」であり、それはまさに恣意的に作り出されたロシア化政策の産物であること、その裏返しであることが確認できた。この経緯と構造はその後のソヴィエト時代にも引き継がれ、現代の錯綜した、混迷を深める民族対立になお反映している。郷土派の路線は結果的に破綻したとはいえ、理念としてその後も生き続けていることに現代的意義があると考えられる。
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